ペッタキを打ち負かしたスプリンター

今日もヨーコに急かされながら大掃除。02年は浦和、上尾、ベルギー、福島の4ヶ所に僕の寝床があったのだが、それを03年に浦和+上尾を引っ越してその荷物を全て福島に持ち込んだから、ダンボールのままの書類や本類〜雑貨〜おもちゃ〜自転車パーツまでかなりの量の整理を今年はしている。


そこで、見つけたちょっと驚きの1枚のレース結果のコピー。
種目23国際ロード というタイトルでリザルトを見ると、一番上に僕の名前がある。「あ〜、94年のシマノ鈴鹿か」と一発で思い出せたのだが、リザルトをみてびっくり。
1 橋川 健              24
2 ルド・ファン・オーバーフェルド   23
3 江原 政光             25
4 アレッサンドロ ペタッキ      20
5 三浦 恭資             33

おい、おい、このペタッキってあのペタッキかよ?年齢も一致するし。しかし真相は謎のままである。

この時は5人で中盤から逃げて、5人のゴールスプリントだった。ゴール前、最後のシケインを抜けて最後の直線に入り(当時はF−1と同じ方向)、遠くに見えた横断幕めがけて、江原さんの後ろの3番手からまくっていったのだが、伸びて差し込んでいる最中に他の選手が横でハンドルを投げているのが分かった。「あれ?」と思った瞬間自分がゴールラインを間違えてスプリントしていた事がわかり、めちゃくちゃ腹立たしかった。ゴール後の速報では招待選手の優勝を告げるアナウンスが流されていたし、力で負けたのならともかく「自分のミス」負けたのがとにかく悔しくて、誰に当たれるわけでもなく、ひとりムッとしていた。しかし、その5分後くらいに場内アナウンスで写真判定の結果自分が優勝した事を知り、負けたと思っていただけにメチャクチャ嬉しかったのを覚えている。1位から4位までが100分の6秒差である事からもいかに接戦かが想像できる。

ペタッキに勝ったこの事実は、僕が東ドイツが生んだサイボーグ、ミカエル・ヒュブナーより、競輪学校の体力測定で速かった(競輪学校の測定機で0発進で30秒ダッシュを行いスタート後3秒までは僕の方が先行している事が判明している。ちなみにヒュブナーの最高速は68km僕は56kmだけど・・・)事実に次いでの栄誉である(笑)。

ちなみに、当時の優勝商品はロスのペア4日間往復チケット! 当時はまだバブルの余韻が残っていたんだね。